疑問符と感嘆符

平坦な日常を這うように生きる者の記録

「7日間で突然頭がよくなる本」 読後感

 小川仁志さんの「7日間で突然頭がよくなる本」を読みました。

著者の小川さんは哲学者ということで、哲学のフレームワークを用いて「頭がいい人はどう考えているのか」ということがわかりやすく説明されていました。

視野を広げたかったり、論理的な説明ができるようになりたかったりする人にはお勧めです。

また、すでに十分いろいろな考え方を身につけているという人でも、平易な言葉で言語化されているので読んでみれば新しい発見があるかもしれません。

 

全体の構成としては、頭がいい人の考え方や表現の仕方を身につけるためにはどうしたらいいかを7段階に分けそれぞれの段階が1日に収まるように説明されています。

簡単な流れは

1日目 思考の素材とするための知識をどのように身につけていくか

2日目 哲学のもつ実用的なフレームワーク一覧

3日目 頭がいい人は哲学が持つフレームワークをどのように活用しているか

4日目 複数の視点を持つことで本質を見極められるようになる

5日目 知識のネットワークを強化する

6日目 論理的であるための方法

7日目 思考を表現する方法

演習問題 以上のノウハウを実践するための具体例

といった感じです。

 

哲学を実用するというのがコンセプトとしてあるため哲学の考え方の説明にかなり紙幅を割いておりその部分はいささか退屈ですが、フレームワークとしての実用性はかなり高いです。

無理に順番に読み通そうとしなくても4日目以降では使い方を具体的に示してくれているので、先に4日目から読み進めて後から戻るというのもありだと思います。

最後の演習問題の部分では7日間の内容を3つの出題に対し著者が思考がたどった経路を示してくれています。

個人的にはちょっと笑ってしまいましたが、深く納得する人もいるかもしれません。

 

知性に対する洞察はやはり哲学者、かなり深いと感じました。

知性を構成する要素として

・思考の素材としての知識

・知識を利用して物事を多角的に認識するための思考法

・思考と思考を有機的に関連させることでより深い洞察を得るためのネットワーク

・思考を順序立てて説明するための論理力、表現力

がありますが、それぞれについて最低限の説明を加えつつもより実践的に日常生活に落とし込まれており、「どうしたらよいのか」という部分にかなり焦点を当てた内容でした。

 

かなり気軽に読める分量なので、気になったらぜひ読んでみてください。

梅雨の体調不良 低気圧と自律神経

梅雨に体調が悪くなったり気分が晴れない一因として低気圧と安定しない気温があります。

気圧が下がると血管の膨張や内耳にかかる圧力の低下から体が「今は活動に適した時期ではない」と判断し自律神経の副交感神経を働かせます。

これが急激に起こると体が対応しきれず色々な不調が生じます。また血管の膨張が脳内で起こると頭痛にもつながります。

寒暖の差が激しいときも、外気温に対応するために代謝を調整する自律神経が酷使され疲労が蓄積した結果うまく働かなくなるといったことがあります。

以上のように自律神経が乱れると、やる気が出なかったりよく眠れなかったりといった状態になってしまいます。

これらへの対策としては「自律神経を乱れにくくする」「乱れた自律神経を整える」という二つのアプローチをとる必要があります。

自律神経を乱れにくくする

まずは乱れにくくするための方法です。

基本としては整ったリズムで生活することです。

ただし一度不調になってしまうと食欲が減退したり寝つきが悪くなってしまうためリズムがどうしても狂ってしまうこともあります。その場合に関しては「乱れた自律神経を整える」の項目で詳しく述べます。

また、体を冷やさないことも重要です。

今の時期でも朝晩は意外と冷えますし冷房が効きすぎているところもありますので、普段は薄着でも少し寒いと感じたときに羽織るものはまだ出しておきましょう。

乱れた自律神経を整える

気候が原因で自律神経が乱れるときは副交感神経が優位になりすぎているという場合もあります。

副交感神経はリラックスするときに働くからいいんじゃないの?と思う方もいるかもしれませんが自律神経はどちらが働きすぎてもよくない影響を及ぼします。

だるいからといって1日中横になっていると交感神経がうまく働かず、よりだるさが強まってしまいます。

また、食欲がなくても何も食べないでいると血糖値が下がりすぎ乱れの原因になってしまうので、すこしでも小分けにしながら食べるようにしましょう。

乱れた自律神経を整える有効な手段としては巷にはいろんな手段があふれかえっていますが、個人的には散歩と読書を推します。

散歩は梅雨の時期は難しいかもしれませんが、副交感神経だけでなく交感神経もバランスよく刺激してくれるので、乱れた自律神経を整える効果は高いです。

読書は体勢などによってどちらが刺激されるかは変わりますが、自律神経の乱れの大きな原因となるストレスを解消する方法としては非常に有効です。

梅雨を乗り切ろう!

沖縄はもう梅雨明けしたらしいですね。

健康な習慣を作り憂鬱な梅雨を乗り切りましょう!

自分のやりたいことを見つけるためのツールとしての欲求5段階説

自分のやりたいことって意外と自分でわかってなかったりします。

ふと「自分は今何をしたいのだろう?」という疑問がわいたときに、自分が何を求めているか知るためのツールとして「マズローの欲求5段階説」を紹介したいと思います。

充実した生活のために

毎日が充実してそうな人ってみんな何か目標ややりたいことをたくさん持っています。

実際目的意識意を持つことで生活にメリハリが生まれて充実感がありますし、長い目で見てものんべんだらりと生きているよりはよほど有意義です。

しかしいざ自分は何がしたいのかかんがえるとパッと思いつかない方も結構いると思います。

人間の欲求を知る

そこで自分が何を欲しているか判断するためにマズローの欲求5段階説」を利用します。

マズローの欲求5段階説」とはどういうものか簡単に説明すると、アメリカの心理学者アブラハム・マズローが提唱した説で、人間の欲求は段階的に5つに分かれており、低次の欲求が満たされないと高次の欲求は発生しないという考え方です。

欲求は低次のものから順に

  1. 生理的欲求 (Physiological needs)
  2. 安全の欲求 (Safety needs)
  3. 社会的欲求 / 所属と愛の欲求 (Social needs / Love and belonging)
  4. 承認(尊重)の欲求 (Esteem)
  5. 自己実現の欲求 (Self-actualization)

となっており生理的欲求では85%、安全欲求では70%、愛の欲求では50%、自尊心の欲求では40%、自己実現の欲求では10%の達成度で移行が充足されると説明されています。

欲求が求めるもの

それぞれの欲求について少し説明します。

・生理的欲求

生命維持のための食事・睡眠・排泄等の本能的・根源的な欲求のことです。通常の健康な人間は即座に次のレベルである安全の欲求が出現します。

・安全の欲求

安全性・経済的安定性・良い健康状態の維持・いい暮らしの水準、事故防止、保障の強固さなど、予測可能で秩序だった状態を得ようとする欲求です。

・社会欲求と愛の欲求

上二つが十分に満たされるとこの欲求が現れます。

自分が社会に必要とされている、はたせる社会的役割があるという感覚や情緒的な人間関係・他者に受け入れられている、どこかに属しているという感覚を求める欲求です。

・承認(尊重)の欲求

自分が集団から価値ある存在と認められ、尊重されることを求める欲求です。この欲求はさらに2段階に分かれ、低いレベルの尊重欲求は他者からの尊敬、地位への渇望、名声、利権、注目などを得ることによって満たすことができます。マズローはこの低い尊重のレベルにとどまり続けることは危険だとしています。高いレベルの尊重欲求は、自己尊重感、技術や能力の習得、自己信頼感、自律性などを得ることで満たされ、他人からの評価よりも自分自身の評価が重視されます。

この欲求が妨害されると、劣等感や無力感などの感情が生じます。

自己実現の欲求

自分の持つ能力や可能性を最大限発揮し、具現化して自分がなりうるものならなければならないという欲求のことです。

自分に足りないものは?

さて、長々とWikipediaのコピペとなってしまいましたが重要なのはここからです。

以上の欲求のどの段階がどれくらい満たされているか分析すれば自分が今何を求めているのか理解する手助けになるでしょう。

・なんかやるきでないなーと思っていたらただの寝不足だった

・仕事に行くのが嫌で嫌でしょうがなかったが久しぶりに友達と会ったらそうでもなくなった

というように自分に今何が足りてなくて何をすればいいのかがわかれば対策を立てられますし、欲求を満たすための予定を立てればそれを楽しみにすることで生活にメリハリが生まれます。

少し注意しておきたいのはこのマズローの欲求5段階説」は学術的にはいくつか問題があり完全に正しいとされているわけではないというところです。

しかしあくまで日常生活の中で自分が求めている者を判断するためのツールとして用いる分には十分に実用に耐えうるモデルだと思います。

それぞれの欲求を満たすための細かい方法はこれからの記事で書いていきたいと思います。

それではみなさんも自らの欲求を知り正しく満たすことで充実した生活を送られますように。

 

義務教育で教えるべきこと

プログラミング必修化についての話題で盛り上がっていますが、義務教育で教えるべきことって何なのでしょうか?

読み書き計算ができればよいという人もいますし、もっと金銭や法律についてのリテラシーを高めるべきだという人もいます。

しかしどの主張にも限界があります。なぜならどれも具体的すぎるからです。

義務教育に求めること

そもそも義務教育とはすべての国民に受ける権利があり、また国はすべての国民が受けられるようにする義務がある教育のことです。

ここで議論の中心としたいのは「すべての国民が」という点です。

確かに読み書き計算ができなくて困らない人はいないような社会となっています。

が、それ以上のことはどうでしょうか?

社会は、理科は、英語は、音楽は、美術は、その他中学校までで習ったことは本当にすべての人に必要なことだったのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

大部分を忘れてしまっている人が多いと思います。

では今の義務教育は失敗なのでしょうか?ほとんどは無駄なのでしょうか?

私は必ずしもそうではないと考えます。

なぜなら教えられる無駄とも思われる内容は、義務教育に求められる要求にこたえるための一手段としてある程度有効であると考えるからです。

私が義務教育に求めるもの、すなわちすべての国民が持っていてしかるべきと考える能力は

「自分にとって必要な知識・能力が何かわかる」

自分にとって必要な知識・能力を獲得するための手段がある

の二つです。

自分で選択したという感覚が満足感につながる

まず「自分にとって必要な知識・能力は何かがわかる」ということについて。

これは言い換えるならば「選択肢を与える」ということです。

人は知らないものを求めることはできません。

ありとあらゆる知識を与える必要はないのです。

ただ「自分の知らない世界がある」と知っていることは人生を豊かにします。

中学までに習ったすべての知識が必要となることはまれですが、そこではじめて知った世界があると思いますし、中にはその一つに進んだという人もいるのではないでしょうか。

現行の教育でもこの役割はある程度果たせていると思います。

科目に縛られない学びの場を作ることも最近は活発に感じられます。

知る方法は一つではない

次に自分にとって必要な知識・能力を獲得するための手段がある」ということについて。

これは「学び方を学ぶ」ということです。

自分の知らない世界を認識したとき、そこに踏み出すための手段が必要です。

しかし、どうにもこの方面については現行の教育は弱いと言わざるを得ません。

ほとんどの人にとって何かを学ぶということは教師がおり、教科書があり、カリキュラムがあって初めて成立することなのではないでしょうか。

そのため何かを始めたいと思ったときにとりあえず教室を探すという人を量産しているのが現状の教育の結果だと思います。

これを改善するためにはどうしたらいいのでしょうか。

今の段階でもこの方面についての取り組みが全くないわけではありません。

多くの方が経験された記憶があると思います。

中には拒絶反応を示す人もいらっしゃるかもしれませんが、改善において重要となるのは「自由研究」です。

夏休みの宿題として時間を圧迫するのに、2学期の頭に少しの期間展示されて終わりにするのはあまりにもったいないことです。

最大の問題は評価の機会がないことです。

もちろん説明の時間はあるでしょうし、教師もちょろちょろっと感想を述べるかもしれませんが、それが何の役に立つのでしょう。

あらかじめ評価基準を説明しておき、2学期いっぱいかけて評価および改善の時間を設けてもいいくらいだと思います。

中には評価基準を設けることに反感を持つ方もいるかもしれません。

しかしこれが最も重要なことで、というのも最終的に自分で評価基準を設けられるようになることが目標だからです。

つまり高評価を得ることが目標ではなく、どういう評価基準を設ければより改善につながるかを知ることが目標です。

これができるようになれば、ある知識・能力の獲得に際して適切な目標設定ができるようになり、そこに至るための手段の選択の助けにもなるのではないでしょうか。

終わりに

インターネットの出現によって知る方法の拡張がなされたように見えました。

しかし今度はインターネットが強力すぎてネットで知れないことを知るすべを持たない人が増えてきました。

プログラミング必修化によって、情報技術の理解からある程度ネットの仕組みについても理解が進むかもしれません。

それによって逆説的にネットではできないことを知り、またネット以外の解決法を知る助けになることを願います。

世界中の人に愛されても

自分のことは好きですか?

僕はあんまり好きじゃないんですが、頑張って好きになろうとしています。

なぜかというと、自分のことを好きじゃない人は絶対にしあわせにはなれないと思うから。

自分で自分のことを愛せない人は、たとえ世界中の人に愛されても満足できないのです。

 

よく「愛されたい」と不幸ぶる人がいますが、そういった人はどれほど愛されても「自分で自分を愛せないのに他人が愛してくれるわけがない」と考えてしまい、愛されていることを信じられません。

こういった自尊心の欠如は幼少期に両親から十分愛されなかったり、他人からひどい扱いを受けたことが原因で引き起こされます。

ただ両親から愛されなったといっても、ネグレクトや虐待に限らず過保護や過干渉など一見愛情に満ちている行為も「正当な愛」からは離れてしまうため原因となってしまいます。

 

自尊心の欠如とは、言い換えれば存在してもよいのかという疑問でもあります。

愛に飢えている人は、常に「自分は存在することを許されていないのではないか?」という恐怖に脅かされています。

その恐怖に抗うために攻撃的になってしまう人もいます。

 

もし自分がそうだという人は、どうか自分を許してあげてください。

失敗によって存在を否定されることはないと理解してください。

誰に言われるべくもなく、あなたは存在していい。

 

もし自分の周りにそう言う人がいるのであれば、特別なことをしてあげる必要はありません。

行動をすべて肯定してあげる必要もありません。

ただその人がそこに存在していて、生きていることを認めてあげてください。

そして可能であれば、その人が自分を愛する手助けをしてあげてください。

 

愛するということはその人が存在しているということに喜びを感じることだと思います。

願わくばあなたが自分を、そして世界を愛することができますように。

愚痴は期待の老廃物であり

今日アルバイトをしているときの話です。

新年度ということもあり、手続きなどのため割とにぎわっていました。

当然ですが基本的なところはともかく細かい点などは全員が把握しているわけではありません。

2フロアあるうちの一階のカウンターではわからない案件も出てきます。

どちらかというと僕が働いている二階のほうが色々と知っている人が多いので、半ばわからないことは丸投げといったふうに人が寄越されてくることもままあります。

が、今日はいささかその数が多すぎました。

本来一階のほうで対応するはずの案件もこちらに回されてくる始末でした。

その結果一緒に働いているパートさんもついに憤慨してしまい

「ちょっと一階に行ってくる!」

と言って注意しに行ってしまいました。

ここまではいいのです。

ただ、戻ってからも憤懣やるかたないといった様子で

「こっちは何でも屋じゃない」

であるとか

「自分の仕事ぐらい理解してほしい」

など長々と愚痴を垂れていました。

あげく、お客様の対応をした後お帰りになってから

「それぐらいわかって欲しいよなあ」

と言い出し、さすがにどうかと思いました。

しかし今日は愚痴を聞かされた愚痴を吐きたいのではないのです。

愚痴を言ってもあんまり得することはなくどちらかというと損することのほうが多いのになぜ愚痴ってしまうのでしょうか。

そこで思い出されるのが、怒らない人は期待をしていないからだという話です。

実際人に期待をしていなければ面倒を増やされても予想の範疇ですので特に怒りは感じません。

愚痴も同じように、期待というか理想というか、とにかく思ってたのと違う!という状況に感じる落胆や不満を解消するためについつい言ってしまうのです。

口に出せば共有と共感を得られるのでストレスは解消されます。

でも長々と愚痴を続ける人もいますよね。

この原因として自己反省の欠如と自己防衛の過剰があると考えます。

そもそも愚痴の内容を考えると、自分にも当てはまる部分がいくつも出てきてしまいます。

ですがはじめは怒りのために自己反省が働かず愚痴を続けてしまいます。

そのまま続けると、あるとき自分も大して変わらないことに意識的なり無意識的なり気づいてしまいます。

これが新しいストレス原因となるために止まらなくなってしまうのです。

つまり、自分も大して変わらないのではないか?という懸念と、それを誰かに指摘されるのではないか?という恐怖から自分を守るために、逆に愚痴を止めることができなくなってしまいます。

ですがこれはお互いにとっていい気分ではありません。

ただ、あんまり他人に期待しないのも冷淡な人と思われてしまいますのでやっぱり一番いいのは誰かが失敗したり怠け心を出してしまっても

「自分もそういうときあるし仕方ないよね」

といった心持ちでいることです。

そうすれば、生きるのがちょっと楽になる気がします。

 

散髪とパーソナルスペース

突然ですが、私は散髪が嫌いです。

いつから嫌いだったのかはわかりませんがとにかくかなり精神的ハードルの高い行為です。

一般に皆さんがどれほどの頻度で美容室なり理容室なり行かれるかは知りませんが、私は最低でも3か月は切らなくていいように切ってもらい、日常生活に支障をきたし始めてから1~2か月ほど我慢するのでだいたい4~6か月くらいの間隔で散髪をします。

ただ自分は髪が伸びるのがやや早いようで、ひと月に1.5~2cm程も伸びます。

そのため散髪直前は毎度前髪をかき分けかき分け視界を確保しているのではたから見たら相当うっとうしいことでしょう。

毎度さっさと髪を切ってしまいたいと思うのですが、理容室へ行くことを考えるとどうしても先延ばしにしてしまいます。

どうしてこうも散発嫌いなのか考えてみると、どうにも自分のパーソナルスペースが関係しているのではと思うのです。

私は昔からパーソナルスペースが本当に広く、他人が目の見える範囲にいる時点でそれがストレスに感じていました。ボディタッチなどもってのほかです。

自宅の、それも自室に一人でいるときでさえ完全にはリラックスできず、家族が完全に出はらって初めて開放感を感じることができます。

そんな私が他人に至近距離ではさみを向けられ、肉体の一部を切断されるとなったら尋常ではないストレスを感じるのも不思議ではありません。

どうにかして自分でできるようになりたいものですが失敗が怖いので練習もできず。

早く全自動散髪器が開発されないでしょうか……。