疑問符と感嘆符

平坦な日常を這うように生きる者の記録

義務教育で教えるべきこと

プログラミング必修化についての話題で盛り上がっていますが、義務教育で教えるべきことって何なのでしょうか?

読み書き計算ができればよいという人もいますし、もっと金銭や法律についてのリテラシーを高めるべきだという人もいます。

しかしどの主張にも限界があります。なぜならどれも具体的すぎるからです。

義務教育に求めること

そもそも義務教育とはすべての国民に受ける権利があり、また国はすべての国民が受けられるようにする義務がある教育のことです。

ここで議論の中心としたいのは「すべての国民が」という点です。

確かに読み書き計算ができなくて困らない人はいないような社会となっています。

が、それ以上のことはどうでしょうか?

社会は、理科は、英語は、音楽は、美術は、その他中学校までで習ったことは本当にすべての人に必要なことだったのでしょうか?

もちろんそんなことはありません。

大部分を忘れてしまっている人が多いと思います。

では今の義務教育は失敗なのでしょうか?ほとんどは無駄なのでしょうか?

私は必ずしもそうではないと考えます。

なぜなら教えられる無駄とも思われる内容は、義務教育に求められる要求にこたえるための一手段としてある程度有効であると考えるからです。

私が義務教育に求めるもの、すなわちすべての国民が持っていてしかるべきと考える能力は

「自分にとって必要な知識・能力が何かわかる」

自分にとって必要な知識・能力を獲得するための手段がある

の二つです。

自分で選択したという感覚が満足感につながる

まず「自分にとって必要な知識・能力は何かがわかる」ということについて。

これは言い換えるならば「選択肢を与える」ということです。

人は知らないものを求めることはできません。

ありとあらゆる知識を与える必要はないのです。

ただ「自分の知らない世界がある」と知っていることは人生を豊かにします。

中学までに習ったすべての知識が必要となることはまれですが、そこではじめて知った世界があると思いますし、中にはその一つに進んだという人もいるのではないでしょうか。

現行の教育でもこの役割はある程度果たせていると思います。

科目に縛られない学びの場を作ることも最近は活発に感じられます。

知る方法は一つではない

次に自分にとって必要な知識・能力を獲得するための手段がある」ということについて。

これは「学び方を学ぶ」ということです。

自分の知らない世界を認識したとき、そこに踏み出すための手段が必要です。

しかし、どうにもこの方面については現行の教育は弱いと言わざるを得ません。

ほとんどの人にとって何かを学ぶということは教師がおり、教科書があり、カリキュラムがあって初めて成立することなのではないでしょうか。

そのため何かを始めたいと思ったときにとりあえず教室を探すという人を量産しているのが現状の教育の結果だと思います。

これを改善するためにはどうしたらいいのでしょうか。

今の段階でもこの方面についての取り組みが全くないわけではありません。

多くの方が経験された記憶があると思います。

中には拒絶反応を示す人もいらっしゃるかもしれませんが、改善において重要となるのは「自由研究」です。

夏休みの宿題として時間を圧迫するのに、2学期の頭に少しの期間展示されて終わりにするのはあまりにもったいないことです。

最大の問題は評価の機会がないことです。

もちろん説明の時間はあるでしょうし、教師もちょろちょろっと感想を述べるかもしれませんが、それが何の役に立つのでしょう。

あらかじめ評価基準を説明しておき、2学期いっぱいかけて評価および改善の時間を設けてもいいくらいだと思います。

中には評価基準を設けることに反感を持つ方もいるかもしれません。

しかしこれが最も重要なことで、というのも最終的に自分で評価基準を設けられるようになることが目標だからです。

つまり高評価を得ることが目標ではなく、どういう評価基準を設ければより改善につながるかを知ることが目標です。

これができるようになれば、ある知識・能力の獲得に際して適切な目標設定ができるようになり、そこに至るための手段の選択の助けにもなるのではないでしょうか。

終わりに

インターネットの出現によって知る方法の拡張がなされたように見えました。

しかし今度はインターネットが強力すぎてネットで知れないことを知るすべを持たない人が増えてきました。

プログラミング必修化によって、情報技術の理解からある程度ネットの仕組みについても理解が進むかもしれません。

それによって逆説的にネットではできないことを知り、またネット以外の解決法を知る助けになることを願います。