疑問符と感嘆符

平坦な日常を這うように生きる者の記録

愚痴は期待の老廃物であり

今日アルバイトをしているときの話です。

新年度ということもあり、手続きなどのため割とにぎわっていました。

当然ですが基本的なところはともかく細かい点などは全員が把握しているわけではありません。

2フロアあるうちの一階のカウンターではわからない案件も出てきます。

どちらかというと僕が働いている二階のほうが色々と知っている人が多いので、半ばわからないことは丸投げといったふうに人が寄越されてくることもままあります。

が、今日はいささかその数が多すぎました。

本来一階のほうで対応するはずの案件もこちらに回されてくる始末でした。

その結果一緒に働いているパートさんもついに憤慨してしまい

「ちょっと一階に行ってくる!」

と言って注意しに行ってしまいました。

ここまではいいのです。

ただ、戻ってからも憤懣やるかたないといった様子で

「こっちは何でも屋じゃない」

であるとか

「自分の仕事ぐらい理解してほしい」

など長々と愚痴を垂れていました。

あげく、お客様の対応をした後お帰りになってから

「それぐらいわかって欲しいよなあ」

と言い出し、さすがにどうかと思いました。

しかし今日は愚痴を聞かされた愚痴を吐きたいのではないのです。

愚痴を言ってもあんまり得することはなくどちらかというと損することのほうが多いのになぜ愚痴ってしまうのでしょうか。

そこで思い出されるのが、怒らない人は期待をしていないからだという話です。

実際人に期待をしていなければ面倒を増やされても予想の範疇ですので特に怒りは感じません。

愚痴も同じように、期待というか理想というか、とにかく思ってたのと違う!という状況に感じる落胆や不満を解消するためについつい言ってしまうのです。

口に出せば共有と共感を得られるのでストレスは解消されます。

でも長々と愚痴を続ける人もいますよね。

この原因として自己反省の欠如と自己防衛の過剰があると考えます。

そもそも愚痴の内容を考えると、自分にも当てはまる部分がいくつも出てきてしまいます。

ですがはじめは怒りのために自己反省が働かず愚痴を続けてしまいます。

そのまま続けると、あるとき自分も大して変わらないことに意識的なり無意識的なり気づいてしまいます。

これが新しいストレス原因となるために止まらなくなってしまうのです。

つまり、自分も大して変わらないのではないか?という懸念と、それを誰かに指摘されるのではないか?という恐怖から自分を守るために、逆に愚痴を止めることができなくなってしまいます。

ですがこれはお互いにとっていい気分ではありません。

ただ、あんまり他人に期待しないのも冷淡な人と思われてしまいますのでやっぱり一番いいのは誰かが失敗したり怠け心を出してしまっても

「自分もそういうときあるし仕方ないよね」

といった心持ちでいることです。

そうすれば、生きるのがちょっと楽になる気がします。